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寬仁親王牌が今年で十七回目だから、第一回の吉岡稔真の圧巻の逃げ(番手無風の中野浩一が全く差せなかった)を見たのは十六年前だ。寬仁親王牌と言えば前橋ドーム、そんな思いは多くのファンの内に在ろうが、全日本選抜競輪の発祥地もまた、この前橋であったということは忘れられているかもしれない。
第一回の寬仁親王牌が一九九二年で、更に七年遡った一九八五年夏、まだ四百走路だった前橋競輪場で初めての全日本選抜が開催された。
その年の春の清嶋彰一が優勝したダービーは立川で、俺は友人と六日間通った。その六日間、特別観覧席の切符を得るには朝七時八時に並ぶのが当たり前だったから、俺と友人はそのつもりで暗いうちに八王子を車で出発した。新設の特別を特観で見るために。
午前八時前には二人、前橋競輪場の門まで辿り着いたはずだ。
しかし、人影がない。
やっと見つけた警備員に尋ねると、「お客さん、いくらなんでも早すぎだって」。
俺たちの後ろにそのあと列ができたのかどうか、そのままずっとそこに並んだのか、それとも車に戻って出直したのか、そこらの記憶が全く抜け落ちてしまっている。
俺と友人が最も競輪に淫していた一九八五年。あれから二十三年が経ってしまったのか。 共同記者会見は後半三つのレース出場の二十七人。唯一スーツにネクタイ姿(他の選手はほとんどジャージ)で現れたのは荒井崇博だった。だから荒井ってわけじゃないんだけど、「タイミングさえのがさなかったら大丈夫」のセリフ? が頭から離れないでいる。