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教科書で四大工業地帯の名称を習い、そのなかで川崎という地名を知ったぼくは中学生だった。
京浜工業地帯には日本全国から若い労働力が集められ、労働者たちのつかの間の休日に川崎競輪場が在ったことを当時のぼくは知らない。作業服すがたの男たちが集う川崎競輪場は「競輪のメッカ」という尊称を与えられることになる。
メッカでの記念競輪はやっぱりなにか、雰囲気が違う。
三日間の休暇とまあまあの金。ひとりで出雲大社を観たいのだと家人を説得したぼくなのに結局、神奈川県より西へ出ることはなかった。なぜ出雲大社なのか、そしてどうして川崎で降りたのかについては書かない、まるっきりつまらない衝動によるものだから。
決勝戦の9レースが終って最終10レースは敗者特選だった。先行一車でアタマは固そうで、マークが流れ込むか、イン粘り間違いなしの鈴木等(山梨・引退)の2着か、二通りの車券が売れていた。
「本命-鈴木等」を買って1センターの金網にへばりついてレースを見た。 ジャンが鳴ってあと一周、番手の二人が身体をぶつけ合いながらぼくの眼前に迫ってくる。「どかしちゃえ!」、そう叫んだか「持ってけえー」だったか。あのときの、鈴木等と共闘しているような奇妙な興奮を二十数年経ったいまも忘れないでいる。というかあとにも先にも、競輪であれ以上の高揚を受けたことはない。山陰の路を歩いていなければいけない人間が競輪場にいるうしろめたさが感情の回路を増幅させたのか、最後の金を張っている博打の興奮ゆえか。
あのとき根無し草同然だったぼくがどうしてだか、川崎競輪場の記者席に座って記念レースを見ている。記者証なんか首にぶら下げて。
ぼくは未だ出雲大社を訪れたことがない。